次回の三文会は、2月9日(水)AM7:30(開場)より、モンテベルデで行います。ふるってご参加ください。 時間的、地理的に来れない方も、ぜひUstreamによるネット中継・録画 http://www.ustream.tv/channel/hayaoki にてお楽しみください。
次回は山田さんによる「谷崎潤一郎」になります。 以下、山田さんからのご紹介です。 このたび「谷崎潤一郎」という題で話をさせていただくことになりました 文学部・日本語日本文学(国文学)4年の山田と申します。 「誰もが知っている」小説家というものがたしかに存在します。 日本の近代文学では、鴎外、漱石がそうであり、芥川、太宰、あるいは中島敦あたりがそうです。 谷崎も「誰もが知っている」小説家には違いないのですが、先に見た小説家との違いは、 彼の小説が「教科書」に載らない(載せられない)ということです。 したがって『舞姫』、『こころ』、『羅生門』、『走れメロス』、『山月記』といった小説を読んだことはあっても、 『刺青』、『蓼喰う虫』、『瘋癲老人日記』といった谷崎の小説を実際に読んだことはないという人が少なくないようです。 にもかかわらず、谷崎は「誰もが知っている」小説家として君臨しています。 つまり「谷崎潤一郎」ということばは、彼の小説そのものというよりも、 「谷崎潤一郎」ということばによって喚起されるイメージと強く結び付いています。 たとえば「エロティシズム」というのがそれです (折しも現在、神保町シアターでは「文豪と女性とエロス」という企画名の下、谷崎の小説が原作の映画が複数上映されています)。 彼の小説が「教科書」向きでないのはこのためと思われます。 そもそも例に漏れず「エロティシズム」なるものへの関心から『痴人の愛』を手にした私が、その後、谷崎に魅かれて行ったのは、 大学1年のときに深津絵里さんが主演の舞台「春琴」を見たことが一つのきっかけでした。 この舞台は谷崎の『春琴抄』という小説が原作なのですが、『春琴抄』を読んだ私は、 「エロティシズム」なるものとは別のものに強く魅かれることになったのです。 今回は、なんとなく怪しいもの、いかがわしいものとしての「谷崎潤一郎」のイメージがどのように生まれて行ったかを、 話題に事欠かないスキャンダラスな彼の実生活にも触れつつ見て行く一方で、 それ以上に、実際の谷崎の小説の本文をできる限り引きながら「谷崎朝文学」(by三島由紀夫)とまで呼ばれるようになった 彼の文学活動を少しでもお伝えできればと思います。 「谷崎」既読の方はもちろん、それと同じかそれ以上に「谷崎」未読の方のご参加をお待ちしております。 それでは当日、皆さんの参加を楽しみにしています!
【1分間スピーチのテーマ】「「谷崎潤一郎」ということばから連想するもの」
【発表者】山田悟史さん(文学部言語文化学科日本語日本文学専修課程4年)
参加費(朝食込み):学生 600円(2011年より変更)、社会人 1200円(朝食抜きの場合は、300円、600円とします)
参加連絡は参加確認フォームからお願いします。※ちなみに毎回このようなお弁当(スープ・コーヒーつき)が出ます。